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zoom RSS 豊臣秀吉の馬印は「千成瓢箪」?

<<   作成日時 : 2013/06/12 09:13   >>

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 戦国時代の馬印といえば、一番に秀吉の「千成瓢箪」が頭に浮かぶ。
 以下信長の「金塗の唐傘」、家康の「金扇」、謙信の「根地色の丸扇」等が有名だろう。
 信玄は、馬印というより旗印「風林火山」が有名だが・・・・。

 この馬印は歴史ファンはよ〜く知っているように、戦場で敵味方を識別したり、大将の所在を示すために用いられた目印のことである。
 だから、遠目でもよく分かるように、色や形式が鮮やかで、派手ななものが多いのはこのためである。
 
 豊臣秀吉の馬印「千成瓢箪」とは、逆さにした瓢箪を棹の上に突き刺し、その下に金の切裂をつけたものだった。
 (※ 切裂とは、縁をギザギザに切り裂いて、なびき易くしたもの))
 では、豊臣秀吉は何時頃からこの馬印を用いるようになったのであろうか?
 江戸初期の『武功夜話』によれば、永禄7年(1564)、鵜沼(うぬま)城(現岐阜県各務原市)を調略して名を上げた時は、まだ「麻一枚」の馬印を用いていたと記載されている。
 
 その「麻一枚」から有名になる瓢箪の馬印になったのは・・・というと、永禄9年(1566)、稲葉山城の攻略時だといわれている。
 奇襲作戦に出た秀吉の一軍が、それぞれの腰に瓢箪をぶら下げ、奇襲の直前にその瓢箪を竹の先に掲げて味方の軍に知らせる合図としたのだ。
 この作戦により稲葉山城は落城し、信長から大いに褒められるとともに武将として認められることになるのだ。
 そして秀吉は、瓢箪を馬印として用いることをも許されることになる。

 以後、秀吉は戦いに勝つごとに、一つずつ瓢箪の数を増やしていったというのだ。
 伝えられるところでは、近江の箕作(みつくり)城を攻めた時には二個、小谷城では三個の瓢箪を掲げていたとされている。
 
 しかしである。勝利の度ごとに瓢箪の数を増やしていったというのはどうだろうか?段々と重くなって戦場には向かなくなって来はしないだろうか?
 また、「千成瓢箪」は、『太閤記』をはじめとする江戸時代の講談や大衆小説に登場しているだけで、実際に使われたという確かな史料は見つかっていないという。
 「賤ケ岳合戦図」や「長篠合戦図」等の屏風絵を見ても、馬印には一つの瓢箪がついているだけなのだ。
 このあたりからも、「千成瓢箪」の馬印は、後世の人の作り話ではないかと考えられているのだ。
 
 一説によると、千成瓢箪は、秀吉の朝鮮出兵の時の、大船の船印として用いられたと言われている。
 (参考〜歴史の謎研究会書他)
 
画像

                 右から3番目が信長の馬印
                 右から8番目が秀吉の仔馬印
                 右から11番目が秀吉の大馬印
 
 

 

 
 

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